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寺院紹介

本堂

安土桃山時代初期(1570年代)天正年間初期安養坊法師と須藤六右衛門正行(唐沢城佐野家々臣)の尽力により「医王山金蔵院薬師寺」として開山されたと伝えられております。


当寺院には前身があり、成立年代は不詳ながらも当時供養に使用された板碑(阿弥陀如来一尊板碑:鎌倉時代中期(1331年)元徳3年に制作された物)が残されております。(平成14年佐野市に寄贈する。佐野市文化財となる。)

江戸時代になり、唐沢28代城主(佐野正綱侯・天徳寺了伯)が隠退をする折り、また、唐沢城主29代城主(佐野信吉侯・佐野修理大夫)が、徳川家康による豊臣氏縁故の外様大名とりつぶし策にて、城を明け渡す折り、2代にわたり一時身を寄せた寺であります。

 

金蔵院 本堂 正面

本堂

金蔵院 本堂内

​座りやすい椅子を完備(本堂内)

金蔵院 本尊「薬師如来」

本尊「薬師如来」坐像

金蔵院 「不動明王」

「不動明王」坐像

金蔵院 境内 不動堂
不動堂 額

以前は薬師堂、現在は不動堂

本尊の変遷

【薬師如来】

栃木県佐野市越名町は、かつて**越名河岸(こえながし)**として、江戸時代に物流拠点として栄えていました。

越名河岸は、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運(しゅううん)の拠点でした。巴波川は渡良瀬川を経て、江戸とつながっており、佐野や周辺地域で生産された物資を江戸に運び、また江戸からの物資を佐野へ運ぶ重要な役割を担っていました。

越名河岸は、多くの船頭や人足、商人たちが働く場所でした。舟運は、天候や水流に左右される危険な仕事であり、事故や病気のリスクも伴います。薬師如来は、医薬の仏として人々の病を癒し、心身の健康を守ると信じられています。そのため、過酷な労働環境にあった人々が、仕事の安全と無病息災を願って「薬師如来」を信仰するようになったと推測されます。​

【不動明王】

しかし、幾度となく落雷によって本堂、地域家宅の焼失の災難に見舞われ、更には平和な時代から、戦乱や争いが頻発するようになっていきました。人々は病気や生活の安定だけでなく、身の安全や厄災からの保護を強く求めるようになりました。この時代には、煩悩や災難を打ち砕く力強い仏、「不動明王」の信仰がより切実なものとなり、本尊を新たに迎えられたと考えられます。

【薬師如来と不動明王】

平成20年に本堂を新築落慶をする運びとなりました。歴史的背景を考慮した上で、創建当時の金蔵院の姿へとの願いが募り本尊を「薬師如来」に、そして本堂横のお堂に「不動明王」をお迎えし現在に至っております。

延命地蔵尊

江戸時代(1692年)元禄5年、住職第49世代に鋳造・市重要文化財佐野家と当時栄えた海運業従事水難者供養のため建立された、天明鋳物の逸品であると言い伝えられております。

別伝には「豊臣地蔵尊」(ほうしんじぞうそん)とも呼ばれています。

佐野の地で、安土桃山時代初期(天正年間)北条氏の唐沢城攻撃が数度にわたりおこなわれ、この地も戦場と化しましたが、豊臣氏の援軍により九死に一生を得ました。

後にこの時戦死した豊臣氏側の武士の霊を慰めご供養するため建立したが、徳川時代のため名目を水難者供養のためとしたとのことです。

金蔵院 境内 延命地蔵尊
金蔵院 境内 鐘楼堂

鐘楼堂

江戸時代(1690年代)元禄時代、延命地蔵尊と同時代須藤彦右衛門により建立される。

太平洋戦争時梵鐘は供出されてなくなっています。

戦後50年を期に、再建の要望高まり、平成5年大協精工社長須藤真通氏の多大なる尽力のもと再建されました。

三十三身観世音菩薩・
​百観音お砂踏み

平成9年6月完成

当寺院の檀信徒に限らず、多くの方々に「観音菩薩の慈悲ある徳」を受けて頂けるよう自由にご参拝できる霊場としています。

金蔵院 境内 十三仏

​十三仏・干支守り本尊

平成12年秋彼岸設置完了。

十三仏は、亡くなった人を供養するための13の仏様です。初七日から三十三回忌までの法要で、それぞれの仏様が故人を守り、密厳浄土へと導いてくれると考えられています。

また、十三仏の中には、個人の干支を守ってくれる仏様も含まれています。これは「守り本尊」と呼ばれ、生まれた干支によって守護仏が決まっています。

寺院にある十三仏の石仏は、故人を供養するだけでなく、私たちの人生を守ってくれる存在でもあるのです。

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